昭和一桁生まれの父母の口癖

私の両親は、既に他界しましたが昭和一桁世代。
昭和5年の父と、昭和6年生まれの母。

そんな両親が良く口にしていた言葉の幾つかをメモします。

お天道様(おてんとうさま)に申し訳ない

昭和一桁生まれの世代は、戦中戦後の食糧難の時代を、
育ち盛りとして生きてきました。

現代の若者と違い、一粒のご飯を残すことに罪悪感を感じて、
食べ物をとにかく大切にしていました。
そして、子供がご飯を残したり、捨てたりすると、
【お天道さまに申し訳ない】と云って、
子供を叱ったり諭したりしたものです。

この「お天道さま」とは太陽のことを指します。
太陽の恵みである作物から作った食べ物だから、
「徒や疎か(あだやおろそか)」 にしては太陽に申し訳ない、
大事にしなさいということだ。

戦中戦後の食糧難が無くても、食べ物を粗末にしないという事は
日本の伝統的な価値観であり、昔の人々には身にしみついていたのですね。

昔の人は太陽な月のことを、親しみを込めて、「お天道さま」
「お日様」、「お月様」と言いました。

「お天道さまに申し訳ない」という思いは、「××教」という宗教以前の本当の宗教といえるかもしれません。

「徒や疎か(あだやおろそか)」 という言葉を出しましたが、この言葉も消えつつ有る言葉です。

徒や疎か(あだやおろそか)

この言葉も最近聞かれなくなりました。
「あだ」は無駄なこと、「徒花(あだばな)」という時の「あだ」です。

したがって、「徒や疎かにしてはいけない」とは、粗末にしたり、
いい加減に扱ったりしてはいけないの意になります。
物以外でも「お約束を徒や疎かにしてはいけません」などと言います。

罰が当たりますよ

昔、子供に対して、よく使われた言葉です。

悪いことをした時、親が警告として使った言葉で、
罰(ばち)とは「神仏のこらしめ」です。

神道、仏教というような具体的な宗教というより、
ざっくりした、神様、仏様を指しています。

もちろん具体的に、どんな「罰」、「懲らしめ」であるか?は、
親は説明しませんでしたし、子供も、「何か恐ろしいことだ」ぐらいにしか考えていませんでした。

「そんな事を言ったら罰が当たる」 とか、
「食べ物を残したら罰が当たる」 と言うように使われていました。

「盗み」などの犯罪行為を犯したら罰が当たる」 というような
法律的な刑罰を意味しているのではなく、世の中の倫理観に反する行為に
対して使われた表現だと言えます。

嘘つきは泥棒の始まり

親が子供に言う小言としては、「もったいない」、「みっともない」、
そして、「嘘つくな」が多かったです。
昔の親は、それほど嘘には厳しく躾けていました。
平気で嘘をつくようだと、そのうち、泥棒のような大罪を平気でやるようになるぞ、と戒めた物です。
これが、「嘘つきは泥棒の始まり」という言葉でした。

「嘘をつくと、閻魔(えんま)様に舌を抜かれるぞ」と言われたものです。
この言葉自体が、嘘かもしれませんが、戒めとして実に効果的な道具でした。

嘘をつくと死んだ時に閻魔大王に舌をとられるというのですが、その残虐で怖い絵が飾られているお寺さんも多かったです。
子供心には非常に恐ろしい絵でした。
閻魔大王が持っている「閻魔帳」という帳面には、死者の生前の罪を記録していて、全ての人間が一生で行った悪行、嘘を記録しているというのです。

地獄と極楽の分かれ目の場所で、死者を血の海と針の山の地獄に落とすべきかどうかを、閻魔帳を見ながら裁くとされていました。

渇(かっ)すれども盗泉(とうせん)の水を飲まず

子供には難しい言葉だが、「盗み」はやっては成らないこと、という教えで、
父が子供の頃言っていたのを覚えている。
どんなに喉が渇いていても、「盗んだ泉の水」は飲むな、
どんなに困っていても悪い事には手を出すな、と憶えていたが、

それで悪くはないが、実は本来の意味は違うようでした。
「盗泉」というのは、泉の名前、固有名詞だったようです。
そしてこの言葉の教えは、孔子様。
孔子の言葉として、“盗泉”という、名前だけでもそんな泉の水飲めば、
身が汚れるからと潔癖さを説いたのが本来の意味らしい。
原文は「渇すれども盗泉の水を飲まず、暑けれども悪木の陰にいこわず」
(文選・陸機・猛虎行)

ことわざ

Posted by stepupkoba